クラッシックなスペインファッションのデザイナーとして尊敬を集めるマヌエル・ペルテガス(Manuel Pertegaz)は、1917年オブラ(テルエル)に生まれ、彼の誕生からわずか数年で、家族はバルセロナへ引っ越します。ペルテガスがカルメン通りのショップで初めての仕事に就いたのもバルセロナでした。すぐにアングロ(Angulo)の紳士服チームに加わりましたが、その後、店で小さなレディスウエア部門が立ち上がった時、自分の天職は、紳士服ではなく、レディスファッションの世界にあることを発見するのです。彼がレディスファッションのデザインに乗り出すのに時間はかかりませんでした。自分の創った作品を女友達や家族に試着させたりしました。
1942年、ペルテガス(Pertegaz)の名前で、バルセロナに自身初のクチュールハウスをオープンしました。有名なディアゴナル通りに面した中二階の店で、彼はここで初めてのクチュールコレクションを発表しました。その6年後、マドリードのエルモシージャ通りとベラスケス通りの角に、ペルテガス・ブティック1号店をオープンします。短期間の間にスペイン国内で彼が手にした成功は、海外、特にパリでコレクションを発表するきっかけとなりました。
ペルテガスは、熱狂的な歓迎を受け、北米市場へと進出する時が来たことを確信しました。1954年、初渡米し、ニューヨーク、ボストン、アトランタ、そしてフィラデルフィアでコレクションを発表。ハーバード大学が、彼にファッション・オスカーを授与し、彼の作品は、アメリカの高級店で販売されるようになりました。1958年、ペルテガスはカイロ・ゴールド・メダルを受賞。1966年にはメキシコ・シティから、もうひとつのゴールド・メダルを授与され、1968年には、ニューオーリンズ市からも、ゴールド・メダルが贈られました。さらにボストン、ベルリンからもゴールド・メダルが贈られ、彼の生まれ故郷の地方や州からも数え切れないほどの賞や賛辞が寄せられました。
1957年、マヌエル・ペルテガスは、彼のマドリードのショールームをカスティリャーナ通りへ移す事を決心します。そして、時を同じくして、クリスチャン・ディオールが亡くなり、ディオールの後継者候補として、マヌエル・ペルテガスの名前が挙げられましたが、華々しい国際的成功にも関わらず、スペイン人デザイナー、ペルテガスは、この申し出を断りました。当時、彼の作品は、イギリス、スイス、カナダに輸出され、コレクションは、カイロ、ベニス、ロンドン、サンチャゴ・デ・チリ、そしてコペンハーゲンで発表されていました。
1965年、初のフレグランス「ディアゴナル(Diagonal)」を発表し、フレグランス分野への参入を果たしました。「ディアゴナル」は、スペイン人デザイナーによって初めて創られ、初めて世界で販売されたフレグランスでした。この後、1975年に「ムイ・ペルテガス(Muy Pertegaz)」、1982年には「スポーツ(Sport)」と続きます。
1969年までに、彼のマドリードのショールームは再び手狭となり、ペルテガスは、エル・ビソの小さなマンションへ移ることを決心します。このときまでに、合計700名がマドリードとバルセロナのアトリエで働いていましたが、後にすべての生産部門をバルセロナへ移すことになります。この頃のペルテガスは、ニューヨークでのコレクション発表と時を同じくして、数々の賛辞や賞を授与されていました。イサベルカトリック女王賞を授与され、数々の賞の受賞には終わりがないように思われました。1993年、マドリード・コンプルテンセ大学からゴールド・メダルを授与され、翌年には、装飾アートの促進に対するゴールド・メダルが贈られました。1998年、バルセロナ市議会から、芸術的功績を讃えるゴールド・メダルが授与され、さらに翌年、アントニオ・ガウディ・ゴールド・メダルおよび美術への貢献を讃えるゴールド・メダルの栄誉に輝きました。故郷オブラもまたペルテガスに対して「イホ・プレディレクト」(Hijo Predilecto/大切な息子)の称号を授け、暖かい賞賛を惜しみませんでした。
1997年、ペルテガスは初のメンズウエアコレクションを発表しました。このメンズコレクションは、最近の彼の仕事の大半を占めています。
現在でも、ペルテガスはスペイン国内外の顧客のためのデザインを続け、彼の名前で発表し、販売するすべての商品ラインの創造・創作に関して、きちんと眼を光らせているのです。